History to 100,000 10万台への歩み
ビユーテーの挑戦・すべての車を美しく 〜洗車機10万台の実績と歩み〜
独創のはじまり大正5年(1916年)4月、竹内栄吉(初代社長)は、妻りうと二人で「鍛冶新」を開業した。時代は折しも工業・産業社会の創生期。「独創的な開発思考」に徹した栄吉は、幾多の苦難を乗り越え、昭和8年(1933年)、電力を要さない重油バーナーの商品化に成功、特許を取得した。 |
自立への出発昭和21年(1946年)、故 竹内茂夫が2代目社長に就任した。21歳。時代のニーズをとらえ、積極的に新商品の開発に挑むこの若い社長の下、経営実績は順調に上がっていった。 |
悪路は夢へとつづくアメリカへ向かう茂夫には、ひとつの想いがあった。工場前の舗装されていない悪路は、連日車を泥だらけにしてくれる。煩わしい洗車作業に悩む日々。『車を楽に洗う機械を何とかして作りたい。モータリゼーションは、近い将来、巨大なマーケットになるだろう。』海外視察の自由行動日、茂夫は洗車機メーカー「カリフォルニア社」を訪れた。 |
情熱は障害を越えるカリフォルニア社社長のフィッシャー氏は温厚な人であった。茂夫の洗車機に対する熱い想いを聞いた氏は、丁寧なアドバイスをくれた。『日本は島国だから、移動式の簡単な機械で充分ではないか、それならば、値段も安い。』だが、それでも1,500ドル。現地ですぐ用意できるとは到底思えない金額だ。悩んだ結果、茂夫はホテルに戻った。そして、同行の一人一人に事情を話して、少しずつお金を借り集め、自分の手持ち分もあわせて、なんとか1,500ドルの現金を作ったのである。 |
新たなる挑戦の幕開く待望の洗車機が名古屋に到着した。高まる期待と喜び。しかし、いざ組立ててみると、なんとも拍子抜けするものだった。試運転をしてみたものの、ほとんど汚れが落ちない。計り知れない失望が襲った。だが、ここで夢を捨てるわけにもいかない。 |
日本初、洗車ビジネス誕生希望に満ちた第1号機誕生ではあったが、市場が存在しない商品にセールスは難航した。懸命な広告宣伝の結果、門型洗車機「カービュウティシャン」が日の目を見たのは1963年6月のことである。 |
世界進出と新たな誘い1970年代には、本格的な海外進出を果たす。輸出型として根本的に設計を見直した「カービュウティシャンMODEL70」を米国オハイオ州のガハナ洗車場に設置。当洗車場はオープン当初から好調で、その後の米国本格進出への大きな礎となった。 |
世界初、未来型洗車機発表経済成長に伴って洗車機市場は成熟し、どのメーカーも、より高い機能を付加した機種を開発し始めた。そんな1985年に発表したのが、世界初、洗車機でできる全自動水垢落とし「カーパックシステム」。水垢除去はもともと手作業でも難しく、それを機械化するには難問が山積だった。いくつものテストによる改善を繰り返した末の発表だった。 |
世界初、未来型洗車機発表1990年代に入ると、竹内鉄工のシェアは70%を越えていた。しかし、それに満足することなく挑戦を続ける姿勢は変わらない。 |
FK-2で洗車業界の意識改革2000年、20世紀最後の年には、洗車機でできるポリマーコーティング「FK-2システム」を開発。車を傷める紫外線量を抑えるための紫外線吸収剤とゴム劣化を抑えるための成分を配合した特殊シリコンが、車の劣化を防ぐことを可能にした。 |
2001年2月9日、
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