Beautysince 1965

 

会社概要Company Profile 洗車機を通じて社会に奉仕することを経営理念として
安全で快適なカーライフを提供し続けます。

History to 100,000 10万台への歩み

ビユーテーの挑戦・すべての車を美しく 〜洗車機10万台の実績と歩み〜
独創のはじまり

大正5年(1916年)4月、竹内栄吉(初代社長)は、妻りうと二人で「鍛冶新」を開業した。時代は折しも工業・産業社会の創生期。「独創的な開発思考」に徹した栄吉は、幾多の苦難を乗り越え、昭和8年(1933年)、電力を要さない重油バーナーの商品化に成功、特許を取得した。

当時、画期的なアイデア商品だったこのバーナーは「千年バーナー」と名付けられ、日本だけでなく、満州・サイパン島など南洋諸島でも認められるまでになった。

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自立への出発

昭和21年(1946年)、故 竹内茂夫が2代目社長に就任した。21歳。時代のニーズをとらえ、積極的に新商品の開発に挑むこの若い社長の下、経営実績は順調に上がっていった。

しかし、昭和24年のデフレ政策で、状況は一変。不況の波が日本中に押し寄せた。かさむ借金。目の前にちらつく「廃業」の2文字。『もはや、我々の力のみで経営を安定させることは不可能だ。』茂夫は、どうしても断ち切ることのできない自社ブランド開発への熱い想いを胸に、日本生産性本部主催「米国・欧州海外視察」への参加を決意した。

昭和37年(1962年)4月から2ヵ月に及ぶ長期視察旅行である。パスポートもビザも容易には入手できなかった時代。海外に持ち出せるお金は、1人1日30ドルという制限があった上、1ドル360円と外貨事情も悪かった。また、太平洋を渡る飛行機はプロペラが主流。飛行機といえば、事故を連想させる。『もし万が一俺に不幸なことがあったら、弟二人で後を守ってほしい。また、従業員の内には、それぞれ九州などから預かった大事な子供達も多いから路頭に迷わせることのない様、家業を引き続けてもらいたい。』そう家族に告げ、茂夫はアメリカ、ヨーロッパへと旅立った。

悪路は夢へとつづく

アメリカへ向かう茂夫には、ひとつの想いがあった。工場前の舗装されていない悪路は、連日車を泥だらけにしてくれる。煩わしい洗車作業に悩む日々。『車を楽に洗う機械を何とかして作りたい。モータリゼーションは、近い将来、巨大なマーケットになるだろう。』海外視察の自由行動日、茂夫は洗車機メーカー「カリフォルニア社」を訪れた。

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情熱は障害を越える

カリフォルニア社社長のフィッシャー氏は温厚な人であった。茂夫の洗車機に対する熱い想いを聞いた氏は、丁寧なアドバイスをくれた。『日本は島国だから、移動式の簡単な機械で充分ではないか、それならば、値段も安い。』だが、それでも1,500ドル。現地ですぐ用意できるとは到底思えない金額だ。悩んだ結果、茂夫はホテルに戻った。そして、同行の一人一人に事情を話して、少しずつお金を借り集め、自分の手持ち分もあわせて、なんとか1,500ドルの現金を作ったのである。

後に来日したフィッシャー氏はこう語る。「当時の茂夫は必死だった。それまでにも、洗車機を買いたいと訪ねて来た日本人はいたが、皆書類にサインするばかりで、帰国してからは何の連絡もなかった。しかし、茂夫は違った。彼には熱意がある。そう思い、販売権も無償で渡した。さらに、洗車機を買ってくれたお礼にハリウッドの高級レストランに招待したが、1台の洗車機を売って食事をおごったのは、後にも先にも茂夫一人だけであった。」このデビッド・フィッシャー氏は、CAR WASH史上最初に洗車業を始めた人物でもある。

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新たなる挑戦の幕開く

待望の洗車機が名古屋に到着した。高まる期待と喜び。しかし、いざ組立ててみると、なんとも拍子抜けするものだった。試運転をしてみたものの、ほとんど汚れが落ちない。計り知れない失望が襲った。だが、ここで夢を捨てるわけにもいかない。

『かくなる上は、何としても自社で洗車機を開発せねば。』試行錯誤の日々。苦難の時を乗り越え、昭和38年(1963年)2月初旬、遂に竹内鉄工の記念すべき洗車機第1号機「CAR BEAUTICIAN(カービュウティシャン)」が完成した。

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日本初、洗車ビジネス誕生

希望に満ちた第1号機誕生ではあったが、市場が存在しない商品にセールスは難航した。懸命な広告宣伝の結果、門型洗車機「カービュウティシャン」が日の目を見たのは1963年6月のことである。

その後、高度経済成長によるモータリゼーションの到来で、洗車機の需要は飛躍的に伸び、洗車業界は群雄割拠の時代に突入。次々と現れるライバル企業に、茂夫は『いかに強敵が現われようとも、うろたえることなく、よりきめ細かいセールス、サービスを行い、安心して「カービュウティシャン」を採用して頂ける様に販売努力せよ。』と檄をとばした。

60年代後半には、多様化するニーズに応える形で「全洗滌型移動式バス洗車機」、「移動式全洗滌タイプ」、日本初のコンベア式洗車場が誕生。さらには「カービュウティシャン」移動式洗車機の基本特許確定で、着実にライバルと差をつけながら、次のステージに踏み出そうとしていた。

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世界進出と新たな誘い

1970年代には、本格的な海外進出を果たす。輸出型として根本的に設計を見直した「カービュウティシャンMODEL70」を米国オハイオ州のガハナ洗車場に設置。当洗車場はオープン当初から好調で、その後の米国本格進出への大きな礎となった。

この時期、技術提携していたアメリカのアーレンエレクトリック社から、資本参加と竹内鉄工買収の打診が再三あった。アーレン社の社長は、当時ニクソン大統領の右腕として活躍していたキッシンジャー氏の実弟という、実力者である。長年、友好関係を築いてきた同志ではあったが、正式に拒否を申し出た。

一方、日本で新たな武器として注目されたのが、ワックスがけである。過去何度もワックス開発に取り組み、満足な結果が得られなかったが、その経験を生かして「グローワクサーミラクル」を開発。世界初、ワックス掛けできる洗車機が誕生した。 1977年には、全天候型テスト場が完成し、メンテナンス、アフターサービス面の体制も強化された。

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世界初、未来型洗車機発表

経済成長に伴って洗車機市場は成熟し、どのメーカーも、より高い機能を付加した機種を開発し始めた。そんな1985年に発表したのが、世界初、洗車機でできる全自動水垢落とし「カーパックシステム」。水垢除去はもともと手作業でも難しく、それを機械化するには難問が山積だった。いくつものテストによる改善を繰り返した末の発表だった。

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世界初、未来型洗車機発表

1990年代に入ると、竹内鉄工のシェアは70%を越えていた。しかし、それに満足することなく挑戦を続ける姿勢は変わらない。
バブル景気の翳りで、どの業界も価格競争の様相を見せ始めていた1990年、価格よりも商品力、圧倒的な質の差で勝負するという、竹内鉄工の企業哲学を形にしたものが、“最高級洗車機”の名のもとに開発された「アキュラ」だった。
その後、1991年に「ニューイーグル」、1992年「SDT」、1993年「マイダス」(洗車機では初となる対話式オペレーションを可能とした。)、「BMC」、1994年「アラジンクロス」、「ソフサス」1996年磨き技「キャリオンシステム」など、さらに多くの新技術、新機種の開発ラッシュを迎えることとなる。

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FK-2で洗車業界の意識改革

2000年、20世紀最後の年には、洗車機でできるポリマーコーティング「FK-2システム」を開発。車を傷める紫外線量を抑えるための紫外線吸収剤とゴム劣化を抑えるための成分を配合した特殊シリコンが、車の劣化を防ぐことを可能にした。

「FK-2」は、“汚れたから洗う”から、“車を守るために洗う”ケアリング洗車へと、意識の変換を図って開発された。21世紀を見据えた新しいコンセプト、洗車の新たな価値観が、そこにあった。

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2001年2月9日、
累計出荷10万台達成

1963年の第1号機誕生から38年。
洗車技術の開発と共に、さらなる洗車文化を創造したいという思いと、飽くなきチャレンジ精神が、多くの結果を生みだした。

1号機発売当初は、作業の省力化・効率化への技術開発、業界全体の拡大に尽力した。そして、洗車文化も新たな時代を迎えようとしている近年、ユーザーとのコミュニケーション強化を計り、顧客創造のためのシステムを開発。次なる15万台達成を目標に、更なる洗車技術の開発、洗車文化創造への挑戦は続く。

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